2012年9月17日月曜日

同好会・鮎釣り大会

昨日(9.16)、同好会の鮎釣り大会が、長良川・中央漁協管内の新鮎之瀬大橋下にて開催された。15名が参加。
毎年のことながら、オトリの購入、賞品・バーベキューの準備等々、幹事の皆さんにはほんとうに感謝しています。

7:00よりルール説明があり、7:30にオトリの配給を受けた人から、橋の上流の瀬に入る人、橋の下流のトロに陣取る人に分かれた。11:00までの競技である。

橋の下は、6人。橋のすぐ下から下流にTNさん、TDさん、Sさん、自分、そして同好会以外の釣り人・2人置いてさらに下にYさん、Hさんが遅れて入川。


結果は、優勝が8尾を釣り上げたTDさん、準優勝がSさん、3位がYさんとなった。いずれも、橋の下流側に入川した人であった。
つまり、自分の両脇の人が上位を獲得。当方は、1尾にて5位。1尾は4人あって、年齢ハンディにて5位となった。
風もなく、流れも緩やかであったので、竿は9.5Mのリミテッド・プロ、水中イトはFujino TurboV0.07を使用。前夜遅くに、作った仕掛けである。
まず、最初に使ったハリは、超早掛けAstea7.5号の4本イカリである。
早々に野鮎を上げようとの魂胆。間もなく、魚信あり。早くも優勝を確信! しかしながら、掛からない。ケラれて、イカリ・バリが尻ヒレから外れているかと思いきや、外れていない。アレェ~ッ?
それが、何度か続く、???
超早掛けはハリの懐がゆるいからだろうと、ハリをJ-TOPハイパー7.5号4本イカリ、さらには一角7.5号の4本イカリに変更。これまでに、こんなに戦略的な釣りをしたのは2度目である。1度目は、前回、2週間前の大和地区でのトロ場での釣り。そのとき、はじめてハリをこの順に換え、自分の釣りも立体的になったものだと自負。それまでは、ハリはほとんどがワンパターンであった。これが、他の釣り人からも入れ掛かりだねぇと褒められたりするものだから、今度の鮎釣り大会もこのパターンで行こうと決めていた。
もっとも、釣果をあげたといっても13尾である。それでも、久々の「つ抜け」である。まぁ、「豚もオダテりゃあ、木に登る」という奴です。

そのうち、上流から「大きな草が流れて行ったゾ~ッ!」と、声がかかります。
そう、この日は、なぜか草が流れてくるのである。上流で草刈りでもしたのだろうか、それとも集中豪雨が原因? まるで、小矢部川である。
気づくのが、遅かりし由良之助。
草が流れているのは、水面ばかりとは限らない。
コツ、コツとイトに触れているのは魚信ではなく、水中のゴミだったなのかもしれない。
そう思うと、2時間ほどの時間の経過にぐったり。

ぐったりといえば、この日は、草に加えて細かい「ブユ」にやられる始末。いまも、蕁麻疹のようにブツブツと蚊に刺されたような赤い腫れが20ほどある。追い払っても、すぐに顔の周りを飛び、気になって仕方ありません。入川してすぐである。首のあたりを刺され、痒くてたまらない。他の人から見ると、釣れなくてふて腐れているように見えたに違い。

そうこうしているうちに、すぐ上流のSさんは、「白い石に(野鮎が)付いているようで気になるんだよナァ~」とポツリ。戦略的じゃあないですか。
当方は、ポリポリと首のあたりをかきながら、「ナルホド、石ネ~、イシか~」などど思いながら、オトリ3尾をローテンションしながら、じっくり待ちます。

初めて掛かったのが、10:00頃。

当然のように入れ掛りを期待するも、タイムオーバーです。


表彰のあと、バーベキューです。
焼肉、焼きそば、そして茹落花生、実に美味しゅうございました。

2012年9月15日土曜日

「大江戸釣客伝」を読んで

この本は、ほんとうに面白かった。
時は、江戸は「元禄」の前後のあたり。徳川綱吉の生類哀れみ令を次々に発し、浅野内匠頭が松の廊下にて吉良上野介に刃傷に及んだ時代、1700年前後の時代。
主な登場人物は、津軽采女、多賀朝湖、室井其角、紀伊国屋文左衛門。

大江戸釣客伝 上
大江戸釣客伝 上

2012年9月2日日曜日

鮎の塩焼き

昨年は、大きな火鉢や七輪で鮎を焼いていた。今年は、串焼き専用の七輪を購入した。
使い勝手がはよく、焼き面を入れ替えるのも、たいそう楽である。


昨年、利用した七輪は、火力があり、カラりと焼きあがって美味しかった。
今回は、使い勝手はいいものの、火力を間違えた。もっと、炭を入れ火力をたかめるべきであった。塩を振って焼いた後、暫く放置しておくと、塩が水分を吸ってせっかく焼いた鮎べっとりと汗をかいたようになってしまった。


それでも、この七輪、購入して大正解であった。大型を購入したのであるが、一度に14本の串を刺すことができる。

2012年8月31日金曜日

小便小僧

東京はJR山手線と京浜東北線の南行・田町寄りのホーム。そこにに小便小僧がある。毎月、衣装替えをしている。

毎月下旬に装いをあらたにしている。何でも、昭和27年に小林歯科が寄付をしたとのことで、当時は駅員の女性が着せ替えをしていたようだ。その女性が亡くなり、昭和61年からは港区内にある手芸グループの「あじさい」が引き継いで今日にいたっているとのこと。

昨年、横浜から小岩に引越しをたため、月初め前後には、先頭車両に乗って確認している。横浜に住んでいる頃は、反対のホームの到着となり、小便小僧のことは知ってはいたが、写真に収めるといことまではしたことがなかった。

ブロンズ像を寄付した小林歯科は、現在、世界貿易センタービルの14階にある。

2012年4月


 2012年5月

2012年6月

 2012年7月
2012年8月


2012年9月

君原健二選手の「私の履歴書」(日経)

 本日、君原健二氏の日経新聞の「私の履歴書」の連載が終了した。

 円谷幸吉選手の話が出で来た時には、昔のことをいろいろ思い出した。昭和39年の東京オリンピック。小学校の5年生だった。東洋の魔女、女子バレーボールと大松監督の厳しい鍛錬は、漫画の連載にもなっていた。
 マラソンは、何と言っても「エチオピアのはだしのアベベ選手」が有名だったが、円谷選手はがっしりとした体格で安定した走りだった。一方、君原選手は、苦しそうに顔を左右に振って走っているのが記憶にある。マラソンの日は、授業が取りやめになり、校長先生から自宅で応援するように言われて、集団下校した覚えがある。
 しかし、昭和43年、円谷選手は自殺。メキシコ・オリンピックの年だから、東京オリンピックの4年後だった。「美味しゅうございました」と「もう疲れきってしまって走れません」のあの悲しい遺書。川端康成はその純粋さを評し、三島由紀夫は円谷選手の自尊心による崇高な死であると、ノーローゼによる自殺という見方を一喝した。円谷選手の自殺から2年後の昭和45年、中学2年生の時に三島由紀夫が自決した。市ヶ谷の自衛隊の建物のテラスで鉢巻きをした三島由紀夫が演説している姿を今も覚えている。演説の内容は聞き取れなかったが、軍服姿であった。さらに、その2年後の昭和47年、大学1年生だった。川端康成が自殺。そのころは横浜で下宿生活を送っていたが、部屋にテレビがなかったのでラジカセから流れるニュースを聞き入った。衝撃だった。川端については、当初、ガス自殺との報道であったが、事故死説もある。

 円谷の自殺→三島の自決→川端の自殺がすべて2年ごとだったことが、不思議だった。その頃だったと思う。ピンク・ピクルスが「一人の道」というを円谷選手の自殺をテーマした歌が流行った。
円谷選手は、東京オリンピックで3位の銅メダルであった。陸上競技場の最後のトラックでイギリスの選手に抜かれてしまう。その実況中継は、あのピンク・ピクルスの歌のイントロ部分に入っている。円谷選手は、大勢の国民が見守るなかで抜かれたことを恥じる。彼は、自衛隊員だった。しかも、その頃、日本はまだ恥の文化色濃い時代。国立競技場に入る時に後ろを振り向いていれば、イギリス人選手が近づいていることを認識きできたはず。しかし、円谷選手の父親は「後ろを振り向くな」と、日頃から厳命していたそうで、その厳命を守って彼は振り向かなかった。武士道精神なのである。

 今回の君原選手の「私の履歴書」ではじめて知り、感動したことがある。
 以下は、君原選手の「私の履歴書」の抜粋である。

「その後、1人かわすと、間もなくして「ドス(2)」という声が聞こえた。そこで初めて、自分が2番手であり、表彰台に立つチャンスがあると確信した。
 しかし、このころ、私の身に困ったことが起きていた。便意を催したのだ。どうしたらいいのだろうと迷った。トイレに行くべきか、我慢して走り続けるべきか。
 トイレに行ったら、どれだけタイムをロスするだろう、ペースを少し落として走り続けたほうがロスは少ないだろうかと、懸命に計算した。しかし、疲労がたまり、酸素が希薄で計算がなかなか進まなかった。結局、私は止まらず、ゴールを目指す。
 沿道の日本選手団からマイケル・ライアン(ニュージーランド)が迫っていることを耳にしていた。競技場に入るとき、私は東京五輪の円谷さんと同じ状況に置かれていた。「決して振り返るな」という父親の教えを守り通した円谷さんは、ゴール目前でベイジル・ヒートリー(英国)にかわされ3位に落ちた。
 私もふだんは、スピードを落としたくないので、後ろは振り返らない。だが、どういうわけか、このときだけは競技場に入る直前に振り向き、後方の状況を確認した。そして、ライアンがすぐ後ろにいることを知る。
 私はもがきながらも、必死に走った。ここまで来たら、何としても2位の座を守りたかった。願いはかなった。2度目の五輪で銀メダルを手にしたのだ。それにしても、なぜ私はあのとき、振り返ったのだろう。円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたとしか思えない。」

そう、東京オリンピックの円谷選手とまったく同じ状況が、メキシコ・オリンピックの君原選手も経験していたのである。
いい話である。

ところで、マラソン選手がマラソンの最中に便意を催すことは、ままあることなのでろうか。落語家の春風亭昇太がこんな話をしている。

米国にフランク・ショーターというマラソンの選手がいる。ミュンヘンオリンピックの金メダリストだ。ミュンヘンオリンピックは、円谷選手が自殺した年に開催されたメキシコオリンピックの次だから、昭和47年ということになる。川端康成の死んだ年である。その翌年、ショーター選手が琵琶湖で開催された毎日マラソンに参加。走っている途中に沿道の人たちが降っている小旗を引きちぎって脇道にそれ、暫くして戻ってきてまた走り出したという、テレビ中継を見ていた昇太少年は何事が起きたのだろうとびっくりしたらしい。ショーター選手は、走っている途中に便意を催し、小旗を使って用を足したらしい。さらに驚いたことに、そのショーター選手、先行する選手を次々に抜き去って、遂には大会新記録で優勝してしまったそうだ。

春風亭昇太の「昇太」は、その「ショーター」選手の名前が由来だという。
何だか、これから春風亭昇太を見ると、便意を催してきそうであるが、面白いエピソードである。

2020年東京オリンピックの招致、ぜひ実現させてほしいものだ。

2012年8月26日日曜日

シュリーマン旅行記清国・日本


「シュリーマン旅行記清国・日本」(講談社学術文庫)を読んだ。

  ある交流会で「夢とロマンで産業の未来をー園芸よもやま話」と題して鈴木邦彦氏から話を聞く機会があった。鈴木氏は、園芸の素晴らしさを実にたのしそうに話された。話のなかで、シュリーマンが旅行記に幕末の日本人が日常生活においていかに園芸をたのしんでいたかが紹介されているとの話をされた。

 外国人が見た幕末から明治の時代については、以前、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)とロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」(講談社学術文庫)を読んだことがある。後者の探訪記は、日本では、長崎、横浜、江戸、隅田川界隈の下町などを回り、そのあと中国・北京を訪問する旅行記である。フォーチュンは園芸植物の専門家の立場から、幕末当時の日本を描写している。本のなかでは、多くを日本の記述が占めていた。それほど、書き留めておくべき感動があった証左である。彼も、日本の庶民が草花を植え込んだ小庭のことを褒め、花を愛することが文化の水準であれば、日本人は英国人よりも文化水準が高いというようなことを書いていた。

 イングリッシュ・ガーデンは、そもそもの発想が日本の庭にあるということを読んだことがある。

 だから、園芸家である鈴木氏が、同じ園芸家でしかも英国人のロバート・フォーチュンではなく、シュリーマンの本を紹介したことが意外であった。そこで、
ハインリッヒ・シュリーマンの「シュリーマン旅行記清国・日本」(講談社学術文庫)を読んでみようと思った。
シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))

 シュリーマンは、園芸家ではなかった。ドイツ人でロジアでの商売で富をを得て世界旅行に出て1865年に中国・清に続いて日本を訪問し、3カ月間の滞在記である。この人は、とくかく好奇心旺盛で積極的な人であり、のちにギリシアでトロイア遺跡を発見した人でもあるようだ。

 旅行記には、モノの寸法や金額が事細かに記載されている。この旅行記でも日本の簡素ななかに威厳のある文化、混浴風呂と清潔な日本人、仏像と花魁を並べる寛容さ、袖の下を受け取らない役人、無駄のない畳の生活、小庭をたのしむ豊かな国民性を強調している。

 そして、最後の「日本文明論」のなかでキリスト教を判断基準にしなければ日本は高度な文明国であり、ヨーロッパ以上に教育がいきわたっていると評している。清国と対照的な印象記となっている。     鈴木氏が、シュリーマンを紹介したのは、案外、政治・外交・経済・社会が行き詰った感のある日本にあって、日本人に元気を自信を取り戻してもらいたかったからかも知れない。
 確かに、何だか自信が湧く、本なのだ。

2012年8月17日金曜日

長良川・美並&大和地区への釣行

2日前の雨による増水の影響が残っている。水は、笹にごり程度であるが、美並地区の福野農道橋のあたりは、40センチほど増水している。
お盆あけの折角の平日休暇である。盆休暇中とは異なり、釣り人は少なかろうと、10:00、長良川の美並地区に釣行したというわけである。


上の写真は、農道橋の上流側である。
いつもの橋の下でも竿を出してみたが、まったく反応がなく、写真の上流に移動。
ググッと、竿が下流にもっていかれ、これは大きいぞと思いきや、ナント、ウグイ。これまた、下の写真のとおり、デカイ!
しかし、招かざる客。すぐにリリースしたものの、タモにはウグイの臭いがついてしまった。
それでも、ここで小さい野鮎が2尾。

昼近くになって師匠のIさんより携帯電話は入った。
上流部は平水だから、大和地区まで移動した方がよいとの、アドバイスであった。
てなわけで、暫くして美並インターから東海北陸道を北上、大和インターに長良川に。河西橋の上流の移動、例年、ヤナが設置される上のプール状の御料場に入川。
Iさんの情報のとおり、ここは平水である。水温は、19度。


ここでは、竿をシマノ・バーサトル85-90からシマノ・リミッテッド95に変更。
錨ハリは、「一角」の7.5号である。
すると、反応は大きくないものの、のそっと、竿がまわり重くなります。引き寄せると、結構、重い野鮎です。写真に収めるのが、それすが、20センチ弱でした。

ここでは、4尾を追加しましたが、15:00、納竿。
というのも、すごい雷がいよいよ近づいてきたものだから、やむを得ません。




2012年8月15日水曜日

飛騨高原川そして馬瀬川・上流への釣行

前日に師匠・Iさんより飛騨の高原川に行こうとの誘いがあった。何でも、昨日、Nさんが30尾ほどの釣果を挙げたという。高原がダメであれば、神通川でもとのことであった。兎にも角にも、朝5時に迎えに来て貰えるということで準備して待つことに。
天気は最悪の雨である。昨日までの渇水が嘘のようだ。日本は、本当に温帯から亜熱帯になてしまったようだ。局地的な大雨が短時間に降る。そして雷だ。
長良川は増水して竿は出せない。それでも、国土交通省の河川情報にて、高原川の下流域の水位は上がっているが上流域の水位はあがっていなので、高原川の上流部には濁りは入らないだろうとのこと。濁りは支流から入るものとのこと。
東海北陸道を北上して、飛騨清美にて高速道路を降り、卯の花街道を抜けていくと途中に道の駅がある。
その道の駅で鮎の塩焼きの準備をしている人が、2人連れの釣り人と高原川の話をしている。彼らの予想も、師匠・Iさんの予想が同じであったから、恐れ入谷の鬼子母神。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。
高原川に向かう途中、スマホで高原川の河川情報をチェック。
「西里橋」地点の水位が10分ごとに1センチ上昇。さらに水位がさほどあがっていなかった上流部の「双六」地点の水位もいよいよ上昇をはじめた。西里橋と双六の間に支流がある。この支流からの濁りが本流に入り、水嵩も増しているのだろと、彼らは予測。だから、本流の上流部では釣りができると踏んでいたのである。凄まじいほどの執念である。
これが上流部の水位もあがっているとなると、これは無理だ。
現に、高原川に到着すると、増水は著しい。水も赤茶けてしまっている。
このため、奥飛騨を抜け、平湯を経由して飛騨ほうのき平スキー場に。そこの喫茶にて休憩。喫茶店の窓越しに見える高山方面には青空も垣間見えている。
スマホでさらに他の河川の情報をチェック。何と、馬瀬川・上流域の水位が安定している。
早速に、Iさんが馬瀬の友人に電話を入れ情報を入手。高原川の上流部の「赤坂橋」の堰堤の下がいいだろうとのことにて、飛騨古川を抜け、パスカル清美の方面を目指してせせらぎ街道を進む。
分水嶺を越えて高原川の源流部に到着。


上の動画が、その目的地である。誰もいない。ラッキーッ。
早速に入川。すると、間もなく、3台の車がやってきて、自分の前はギャラリーが5人。作法を間違えないように、オトリを送り出す。若干の濁りはあるが、問題はない。問題は水温である。14℃。これでは、アマゴ、岩魚の世界である。
途中、あの卯の花街道の道の駅で会ったあの二人連れの釣り人の車が通り過ぎていった。釣り好きな人は同じ思考をするのだろうかと感心した。
ここで2尾。

小雨も降ってきてここで移動。14時。
高原川を下ることとなり、パスカル清美を右手に見ながら南下。暫くして新しいトンネルを抜け、川がSの字になるとこで脇道に入って行くと吊り橋がある。初めての場所である。川原にはテントが2つ張ってあり、キャンプをしている。天候が悪いからといってキャップを日延べできないのが、勤め人の辛いところ。それにしても、幻想的な風景である。
ここでちょっとした淵があり、その上でオトリを送り込む。膝あたりまでの水位である。水温はあいかわずである。ここでも2尾。

17時に納竿。
釣り好きな人たちの信念に感服した釣行であった。まだ、マダッ!と、自らを鼓舞してみた盆休み。

2012年8月12日日曜日

長良川・美並への釣行

夏休暇の2日目。長良川の美並地区に釣行。最初に入った場所は、円空の里、支流・粥川の合流地点である。ここは、車の駐車スペースが広く、入川しやすい。
粥川の上流に円空のふるさと館があって、円空仏も多く展示されているということであるが、まだ、訪れたことがない。岐阜の人間ながら、ほとんど岐阜のことを知らない。釣りを始めて、いろいろな地名を覚えはじめたまだまだ若葉マークの岐阜人なのである。
朝10時、すでに10人近い釣り人が竿を出している。
川は、渇水が続き、根腐れを起こして岩は、赤茶けたヌルヌルとしたコケに覆われていて、滑りやすい。

ここで、正午近くまで粘ってみなものの、2尾が掛かったのみ。これ以上、進展が期待できず、昼食を機に、川の下流になるいつもの「福野農道橋」に移動することとした。
昨日は、農道橋の左岸に入ったのだが、Nさんが右岸に入っていたところを橋の上から見た際に多くの野鮎がいたのが気になったからである。
そこは、ゆるいプール状になったところで、川底は頭ほど大きさの石が詰まっている場所である。昼はトロというではないか、とうわけで、トットと移動。

そう、下の写真がそのトロ場である。
水深は思った以上にあるため、竿は、同じシマノのバーサトル85-90からリミテッドプロ95に換え、オトリを奥へ奥へと送り込んだ。


左岸の大きな石に大きなハミ跡があり、そこにオトリを送り込みます。
大きく目印が沈んだかと思うと、グ~~ン~ッと、目印が川を上ります。
来ました来ました、大物です。帰宅後にサイズを測ってみたところ、22センチです。
これは、たのしめました。

 やがて、ボートが大量にやってきました。夏休みです。若者が、ワイワイとたのしんでいます。
以前は、先頭にカヤックで「これからボートが入ります~ッ!」と挨拶していたように記憶しています。また、シンガリにもカヤックに乗った指導員が、「ありがとうございました~ッ!これが最後のボートです~ッ」と、気を配っていたように思います。
それが最近は、なくなったように思うのですが、ボートも釣り人もともに川をたのしむことが大切。
当方が、川の中でカメラを向けていると、ボートの若者が驚いたように回りの連中にカメラがあることを知らせています。当方が、悪意はないことを意思表示しるために、カメラを振ると、《あぁ~》というようにニッコリ。オールを振って応えてくれました。
余程、釣り人に睨まれていることを事前レクされているのだろう。現に、えらく立腹している釣り人を見かけたこともある。
ちょっとした双方のエチケット、気配りが大切であり、誰もが自然をたのしむいくことが何より肝要である。


2012年8月11日土曜日

長良川・美並地区への釣行


きょうから19日までの9日間、夏休暇。
思いっきり、鮎釣りをたのしもうと思い、長良川に釣行。
今朝は、例によって従兄弟と地元での喫茶あとに釣行。
釣行先は、美並地区の「下田北橋」上流にある「福野農道橋」下である。この場所は、2年前の月刊誌「つり人」8月号の表紙を飾った場所である。
下の動画にあるように超渇水の状態である。表紙を飾ったのは、農道橋の真下の大きな岩である。その岩が水面から顔を出しているから、その渇水の程が窺える。水はきれいで透き通っている。


下の写真が、福野農道橋である。立派な橋である。農道橋というからには、国土交通省関連の予算ではなく、農林水産省関連の予算で架けられたものなのだろうが、事業仕分けの時代であれば、間違いなく、こんな立派な橋が必要なのですかと批評されるに違いない。一級河川に架ける橋となると、農道と言えども、これくらいの規模の橋が必要なのかもしれないが、結構、釣り人も重宝して利用している。

野鮎は沈み石や岩盤状態の大きな岩のところで群がっている。そこにオトリを送り込めば、間違いなく好釣果に繋がるはず。
10:30、スタート。
オトリは、野鮎のいる石のあたりを泳いでいるのだが、掛からない。野鮎が縄張りを持たず群れているのだろうか、なかなか掛からない。明らかに縄張りをもって野鮎も見てとることができる。そこにオトリを送り込むと、さきほどまで血気盛んに縄張りに入ってきた別の野鮎を追っ払っていたにもかかわらず、血気盛んな野鮎が影を潜めてします。オトリ鮎が大きすぎるのか、オトリ鮎に異様さが漂っているのか。見えている魚は釣れないというが、鮎もそうなのだろうか。

14:30、川下りのボートがやってきたところで納竿。
4尾。中央の2尾がオトリ鮎。

2012年7月22日日曜日

長良川・郡上市大和地区への釣行

天気予報では、この週末は「晴れ」のはずであった。そのつもりで、帰省の切符を購入したのだが、昨日は「雨」、本日も「曇り」である。これでは、折角に帰省した意味がない。
師匠は釣行を見合わせるようで、兄弟子のNさんが川見かたがた郡上にいるとのこと。がまかつの鮎釣り競技大会が大和区内の万場で開催されていることもあり、釣り人は多いとのこと。

とあらば、行かねばなるまいとばかりに東海北陸道にて大和へ。大和から白鳥まで川見をしながら、北上。白鳥の道の駅で売っている五目御飯が食べたくなり、昼食。川を見ながら、昼食。釣り人が4人。見ている限り、竿は曲がらない。川の石が、昨日までの雨で白い。
Nさんに電話をすると、大和の河西橋の上流とのことにて、南下。Nさんと合流。




オトリを放ち、すぐに2連荘。これはこれはとニンマリ。これが、例によって続かない。いつものパターンである。
出入りが多く、4尾釣って3尾が根掛り。プラス1尾という結果に。雨で流れてきた葦が石に絡まり、そこにオトリの針がってな、調子。
まあ、竿を出せただけでも由とす。
帰省できない来週の天気予報は、バッチリ、釣り日和。









2012年7月15日日曜日

金沢・氷見そして五箇所村

「経験したことのないような大雨」、気象庁が初めて用いた九州での大雨。
その前線が近畿、北陸への東進するなか、その前線とともに、一宮から名神高速道路に乗り、滋賀県、福井県を経由して金沢に向かった。午後6時に出発して、滋賀、福井と北上するにつれ、車のワイパーはフル回転である。前の車のライトが頼りの運転となった。親子3人と母親の計4人。
その夜は、金沢ニューグランドホテルに宿泊。夕食後、市内片町の「とと桜」にて、ご当地の日本酒・菊姫にて炉端を堪能した。
翌日は、晴れ。兼六園を観た後、富山県の氷見へ。昨年、食べた氷見の「きよ水」の寿司が美味しかったというので、再度の訪問となった。あの大雨の影響であろう、氷見の漁協の品揃えは、昨年ほどではなかったが、再びうまい寿司にありつけた。

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帰路は、東海北陸道を南下。途中、五箇所村を訪ねた。
大雨の後、暑さのなかにも台風一過のようなさわやかさもあり。
五箇所村の合掌造りは、白川郷とは規模が違うとは言え、生活感のある佇まいであった。

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2012年7月12日木曜日

「永遠のゼロ」を読んで

読後感が、サイダーを飲んでゲップをしたあとのようなさわやかさがある。まさに、起承転結といった流れなのでるが、納得してしまう清涼感がある。
ゲップは、巻末近くなって2度出る。
この本は、薦められた読んだ。
私の父も、戦争体験者である。航空廠勤務から徴兵により陸軍に入隊、満州、フィリピンなどの戦線に加わった。私も幼い頃、戦争の話を聞かされたものだ。
この本を読んで、もっときちんと話を聞いて置くべきだったと、後悔もするほど。

飛騨・荘川への釣行

長良川の中央管内は、水が高く、郡上を超え一気に白鳥まで車を走らせる。例によって、白鳥の道の駅裏を覗いてみる。2人の釣り人が入っているが、とてもじゃないけど釣りなどできそうにない。

さらに高鷲の方面にまで北上すべきかと思ったところで、師匠に電話を入れてみたところ、荘川にいるとのこと。Yさんも、Nさんも一緒だというので、荘川まで足を伸ばすことに。

荘川に着いたのは、10時頃だったろうか。
一色川との合流点の上流の惣則に入川。
Nさん曰く、ボチボチとのこと。
水温は、15℃。かなり冷たい。
やはり、まったく釣れない。
甘い香りが流れてくる。桜餅の香りである。一色川沿いには、桜並木が続いている。その桜の葉の香りである。
とうとう釣れないまま、昼食で切り上げることに。
ここを見切り、漁協前に行くことなる。


上の写真は、漁協前の橋から下。結構、人が入っている。漁協前は放流が多いに違いないとの話に期待。
3人は橋の下に。自分は、橋の上流に。こちら側には、釣り人は一人。「釣れますかぁ~」
もちろん、期待して尋ねたわけではない。
「釣れますよ~」
「えっ!」
「釣れるのかよ!?」


実釣!
と、このビデオの冒頭の石の裏にオトリが入ったところでガッツン。付け糸が切られ、ドボンです。
しかし、俄然、ヤル気が出ます。
15時に帰ることに決めていたものの、20分延長です。
なんと、15尾。
連荘というところだったものの、ちょっと気になることが。ビンビンと魚信が伝わってこない。グーッと竿が重くなるように釣れる。まだ、群れ鮎なのか、あるいは水温が低く活性が悪いのか。


上の写真、やってみたかったんです。本当は、20・30尾も釣ったように思っていたから、もっと激しいイメージを描いていたのですが、次回に期待といったところ。


帰宅後、真空パック化。




2012年7月10日火曜日

「『びわ湖検定』でよみがえる」を読んで

あすの長良川への釣行に期待を膨らませながらの、例によっての「ぷらっとこだま」での帰郷である。
3時間を要しての名古屋までの新幹線である。本日は、品川駅にて「八天堂」のクリームパンを並んで購入したために、品川駅中ショップでの駅弁が購入できなかった。
そので、いつか購入した三島駅の「港あじ鮨」を買い求めた。

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今回、車中で読んだ本は、児玉征志著「『琵琶湖検定』でよみがえる」(新評論)である。6月下旬に発売されたばかりのもので、アマゾンに予約していたものが、昨日、届いた。駅弁とビールをたのしみながら、読もうと考えていた。



「びわ湖検定」でよみがえる: 滋賀県っておもしろい (シリーズ《近江文庫》)


背伸をせず、肩肘も張らず、むしろ控えめな身構えの文章が素直に頭に入ってくる。
渡岸寺の十一面観音は、ぜひ一度、実際に拝観したいものだと思った。
もちろん、この本は、観光本ということではない。
この世で一番たいせつなものは、すてきなタイミング。と歌ったのは、坂本九である。
本を読みながら、そんなフレーズを思い出した。


2012年7月1日日曜日

長良川の美並・福野農道橋あたりへの釣行

同好会の人たちは、長良川の大和、白鳥方面で釣り。釣れてはいないらしい。
であれば、出遅れた自分としては手じかなところで。
というところで、美並の下田北橋の上流を川見することに。
釣り人は4人。
福野橋から川見をすると、驚きです。ギラギラしています。
釣り人2人の上の右岸よりです。
下の写真のまさにその岩なのです。

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早速にオトリを送り込みます。見えているのですが、掛かりません。
粘って粘ってみました。というより、あんなにギラギラしているのを見れば見切ることなどできません。

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最初に入川していた2人は、とうとう見切りをつけました。
で、周りが開けてきて釣り場は独占状態です。
移動できるわけがありません。
いよいよ、移動などできません。
結果、1尾。







2012年6月24日日曜日

今シーズン初鮎釣り

本日、今シーズン、初の鮎釣り。本来は、昨日の馬瀬川上流の鮎釣り解禁に行きたかったのところなれど、金曜日の帰郷が遅くなり、準備が間に合いそうになくあきらめ。
本日は、5時半に出発し、途中、美濃の矢島おとり店にて郡上漁協の年券を購入し、いざ、郡上へ。
川見をしながら、北上。最終的に、白鳥の道の駅の裏に入川。
ばったり、同好会のNさんに会う。


まったくに釣れません。ようやく待望の1尾を釣り上げたのが、9:30です。入川したのが7:30だったので、なんと2時間待ちだったのです。そのあと、10分後にさらに1尾を追加。

正午近くになって、上流に移動。下の動画の場所です。ここも白鳥道の駅裏ですが、白鳥地区では、毎回、入るところです。これがまったく反応なし。ここで折角に釣った野鮎の1尾を根掛りにてロス。ここは、Nさんが入川時に川見をして、岩が汚れていると言って、犬猿したところです。そのあと、入っていた人の竿はまったく曲がっている様子がなかった。Nさんの判断は正しかった。そうなんです、ハミ跡がないのです。鮎はほんとうにどこに行ったのかと、首を傾げたくなるほどです。ぜひ、下の動画を見て頂きたい。どう見ても、釣れないのが不思議な形相です。それが、釣れない。まったく。


昼食のために13:30に車に戻ったものの、再入川する気にならず、そのまま退却。
退散時に声を掛けてきた釣り人曰く、朝から粘ってたったの3尾だよ、鮎が見えないんだよネ~。