2012年8月31日金曜日

小便小僧

東京はJR山手線と京浜東北線の南行・田町寄りのホーム。そこにに小便小僧がある。毎月、衣装替えをしている。

毎月下旬に装いをあらたにしている。何でも、昭和27年に小林歯科が寄付をしたとのことで、当時は駅員の女性が着せ替えをしていたようだ。その女性が亡くなり、昭和61年からは港区内にある手芸グループの「あじさい」が引き継いで今日にいたっているとのこと。

昨年、横浜から小岩に引越しをたため、月初め前後には、先頭車両に乗って確認している。横浜に住んでいる頃は、反対のホームの到着となり、小便小僧のことは知ってはいたが、写真に収めるといことまではしたことがなかった。

ブロンズ像を寄付した小林歯科は、現在、世界貿易センタービルの14階にある。

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2012年8月


2012年9月

君原健二選手の「私の履歴書」(日経)

 本日、君原健二氏の日経新聞の「私の履歴書」の連載が終了した。

 円谷幸吉選手の話が出で来た時には、昔のことをいろいろ思い出した。昭和39年の東京オリンピック。小学校の5年生だった。東洋の魔女、女子バレーボールと大松監督の厳しい鍛錬は、漫画の連載にもなっていた。
 マラソンは、何と言っても「エチオピアのはだしのアベベ選手」が有名だったが、円谷選手はがっしりとした体格で安定した走りだった。一方、君原選手は、苦しそうに顔を左右に振って走っているのが記憶にある。マラソンの日は、授業が取りやめになり、校長先生から自宅で応援するように言われて、集団下校した覚えがある。
 しかし、昭和43年、円谷選手は自殺。メキシコ・オリンピックの年だから、東京オリンピックの4年後だった。「美味しゅうございました」と「もう疲れきってしまって走れません」のあの悲しい遺書。川端康成はその純粋さを評し、三島由紀夫は円谷選手の自尊心による崇高な死であると、ノーローゼによる自殺という見方を一喝した。円谷選手の自殺から2年後の昭和45年、中学2年生の時に三島由紀夫が自決した。市ヶ谷の自衛隊の建物のテラスで鉢巻きをした三島由紀夫が演説している姿を今も覚えている。演説の内容は聞き取れなかったが、軍服姿であった。さらに、その2年後の昭和47年、大学1年生だった。川端康成が自殺。そのころは横浜で下宿生活を送っていたが、部屋にテレビがなかったのでラジカセから流れるニュースを聞き入った。衝撃だった。川端については、当初、ガス自殺との報道であったが、事故死説もある。

 円谷の自殺→三島の自決→川端の自殺がすべて2年ごとだったことが、不思議だった。その頃だったと思う。ピンク・ピクルスが「一人の道」というを円谷選手の自殺をテーマした歌が流行った。
円谷選手は、東京オリンピックで3位の銅メダルであった。陸上競技場の最後のトラックでイギリスの選手に抜かれてしまう。その実況中継は、あのピンク・ピクルスの歌のイントロ部分に入っている。円谷選手は、大勢の国民が見守るなかで抜かれたことを恥じる。彼は、自衛隊員だった。しかも、その頃、日本はまだ恥の文化色濃い時代。国立競技場に入る時に後ろを振り向いていれば、イギリス人選手が近づいていることを認識きできたはず。しかし、円谷選手の父親は「後ろを振り向くな」と、日頃から厳命していたそうで、その厳命を守って彼は振り向かなかった。武士道精神なのである。

 今回の君原選手の「私の履歴書」ではじめて知り、感動したことがある。
 以下は、君原選手の「私の履歴書」の抜粋である。

「その後、1人かわすと、間もなくして「ドス(2)」という声が聞こえた。そこで初めて、自分が2番手であり、表彰台に立つチャンスがあると確信した。
 しかし、このころ、私の身に困ったことが起きていた。便意を催したのだ。どうしたらいいのだろうと迷った。トイレに行くべきか、我慢して走り続けるべきか。
 トイレに行ったら、どれだけタイムをロスするだろう、ペースを少し落として走り続けたほうがロスは少ないだろうかと、懸命に計算した。しかし、疲労がたまり、酸素が希薄で計算がなかなか進まなかった。結局、私は止まらず、ゴールを目指す。
 沿道の日本選手団からマイケル・ライアン(ニュージーランド)が迫っていることを耳にしていた。競技場に入るとき、私は東京五輪の円谷さんと同じ状況に置かれていた。「決して振り返るな」という父親の教えを守り通した円谷さんは、ゴール目前でベイジル・ヒートリー(英国)にかわされ3位に落ちた。
 私もふだんは、スピードを落としたくないので、後ろは振り返らない。だが、どういうわけか、このときだけは競技場に入る直前に振り向き、後方の状況を確認した。そして、ライアンがすぐ後ろにいることを知る。
 私はもがきながらも、必死に走った。ここまで来たら、何としても2位の座を守りたかった。願いはかなった。2度目の五輪で銀メダルを手にしたのだ。それにしても、なぜ私はあのとき、振り返ったのだろう。円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたとしか思えない。」

そう、東京オリンピックの円谷選手とまったく同じ状況が、メキシコ・オリンピックの君原選手も経験していたのである。
いい話である。

ところで、マラソン選手がマラソンの最中に便意を催すことは、ままあることなのでろうか。落語家の春風亭昇太がこんな話をしている。

米国にフランク・ショーターというマラソンの選手がいる。ミュンヘンオリンピックの金メダリストだ。ミュンヘンオリンピックは、円谷選手が自殺した年に開催されたメキシコオリンピックの次だから、昭和47年ということになる。川端康成の死んだ年である。その翌年、ショーター選手が琵琶湖で開催された毎日マラソンに参加。走っている途中に沿道の人たちが降っている小旗を引きちぎって脇道にそれ、暫くして戻ってきてまた走り出したという、テレビ中継を見ていた昇太少年は何事が起きたのだろうとびっくりしたらしい。ショーター選手は、走っている途中に便意を催し、小旗を使って用を足したらしい。さらに驚いたことに、そのショーター選手、先行する選手を次々に抜き去って、遂には大会新記録で優勝してしまったそうだ。

春風亭昇太の「昇太」は、その「ショーター」選手の名前が由来だという。
何だか、これから春風亭昇太を見ると、便意を催してきそうであるが、面白いエピソードである。

2020年東京オリンピックの招致、ぜひ実現させてほしいものだ。

2012年8月26日日曜日

シュリーマン旅行記清国・日本


「シュリーマン旅行記清国・日本」(講談社学術文庫)を読んだ。

  ある交流会で「夢とロマンで産業の未来をー園芸よもやま話」と題して鈴木邦彦氏から話を聞く機会があった。鈴木氏は、園芸の素晴らしさを実にたのしそうに話された。話のなかで、シュリーマンが旅行記に幕末の日本人が日常生活においていかに園芸をたのしんでいたかが紹介されているとの話をされた。

 外国人が見た幕末から明治の時代については、以前、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫)とロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」(講談社学術文庫)を読んだことがある。後者の探訪記は、日本では、長崎、横浜、江戸、隅田川界隈の下町などを回り、そのあと中国・北京を訪問する旅行記である。フォーチュンは園芸植物の専門家の立場から、幕末当時の日本を描写している。本のなかでは、多くを日本の記述が占めていた。それほど、書き留めておくべき感動があった証左である。彼も、日本の庶民が草花を植え込んだ小庭のことを褒め、花を愛することが文化の水準であれば、日本人は英国人よりも文化水準が高いというようなことを書いていた。

 イングリッシュ・ガーデンは、そもそもの発想が日本の庭にあるということを読んだことがある。

 だから、園芸家である鈴木氏が、同じ園芸家でしかも英国人のロバート・フォーチュンではなく、シュリーマンの本を紹介したことが意外であった。そこで、
ハインリッヒ・シュリーマンの「シュリーマン旅行記清国・日本」(講談社学術文庫)を読んでみようと思った。
シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))

 シュリーマンは、園芸家ではなかった。ドイツ人でロジアでの商売で富をを得て世界旅行に出て1865年に中国・清に続いて日本を訪問し、3カ月間の滞在記である。この人は、とくかく好奇心旺盛で積極的な人であり、のちにギリシアでトロイア遺跡を発見した人でもあるようだ。

 旅行記には、モノの寸法や金額が事細かに記載されている。この旅行記でも日本の簡素ななかに威厳のある文化、混浴風呂と清潔な日本人、仏像と花魁を並べる寛容さ、袖の下を受け取らない役人、無駄のない畳の生活、小庭をたのしむ豊かな国民性を強調している。

 そして、最後の「日本文明論」のなかでキリスト教を判断基準にしなければ日本は高度な文明国であり、ヨーロッパ以上に教育がいきわたっていると評している。清国と対照的な印象記となっている。     鈴木氏が、シュリーマンを紹介したのは、案外、政治・外交・経済・社会が行き詰った感のある日本にあって、日本人に元気を自信を取り戻してもらいたかったからかも知れない。
 確かに、何だか自信が湧く、本なのだ。

2012年8月17日金曜日

長良川・美並&大和地区への釣行

2日前の雨による増水の影響が残っている。水は、笹にごり程度であるが、美並地区の福野農道橋のあたりは、40センチほど増水している。
お盆あけの折角の平日休暇である。盆休暇中とは異なり、釣り人は少なかろうと、10:00、長良川の美並地区に釣行したというわけである。


上の写真は、農道橋の上流側である。
いつもの橋の下でも竿を出してみたが、まったく反応がなく、写真の上流に移動。
ググッと、竿が下流にもっていかれ、これは大きいぞと思いきや、ナント、ウグイ。これまた、下の写真のとおり、デカイ!
しかし、招かざる客。すぐにリリースしたものの、タモにはウグイの臭いがついてしまった。
それでも、ここで小さい野鮎が2尾。

昼近くになって師匠のIさんより携帯電話は入った。
上流部は平水だから、大和地区まで移動した方がよいとの、アドバイスであった。
てなわけで、暫くして美並インターから東海北陸道を北上、大和インターに長良川に。河西橋の上流の移動、例年、ヤナが設置される上のプール状の御料場に入川。
Iさんの情報のとおり、ここは平水である。水温は、19度。


ここでは、竿をシマノ・バーサトル85-90からシマノ・リミッテッド95に変更。
錨ハリは、「一角」の7.5号である。
すると、反応は大きくないものの、のそっと、竿がまわり重くなります。引き寄せると、結構、重い野鮎です。写真に収めるのが、それすが、20センチ弱でした。

ここでは、4尾を追加しましたが、15:00、納竿。
というのも、すごい雷がいよいよ近づいてきたものだから、やむを得ません。




2012年8月15日水曜日

飛騨高原川そして馬瀬川・上流への釣行

前日に師匠・Iさんより飛騨の高原川に行こうとの誘いがあった。何でも、昨日、Nさんが30尾ほどの釣果を挙げたという。高原がダメであれば、神通川でもとのことであった。兎にも角にも、朝5時に迎えに来て貰えるということで準備して待つことに。
天気は最悪の雨である。昨日までの渇水が嘘のようだ。日本は、本当に温帯から亜熱帯になてしまったようだ。局地的な大雨が短時間に降る。そして雷だ。
長良川は増水して竿は出せない。それでも、国土交通省の河川情報にて、高原川の下流域の水位は上がっているが上流域の水位はあがっていなので、高原川の上流部には濁りは入らないだろうとのこと。濁りは支流から入るものとのこと。
東海北陸道を北上して、飛騨清美にて高速道路を降り、卯の花街道を抜けていくと途中に道の駅がある。
その道の駅で鮎の塩焼きの準備をしている人が、2人連れの釣り人と高原川の話をしている。彼らの予想も、師匠・Iさんの予想が同じであったから、恐れ入谷の鬼子母神。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。
高原川に向かう途中、スマホで高原川の河川情報をチェック。
「西里橋」地点の水位が10分ごとに1センチ上昇。さらに水位がさほどあがっていなかった上流部の「双六」地点の水位もいよいよ上昇をはじめた。西里橋と双六の間に支流がある。この支流からの濁りが本流に入り、水嵩も増しているのだろと、彼らは予測。だから、本流の上流部では釣りができると踏んでいたのである。凄まじいほどの執念である。
これが上流部の水位もあがっているとなると、これは無理だ。
現に、高原川に到着すると、増水は著しい。水も赤茶けてしまっている。
このため、奥飛騨を抜け、平湯を経由して飛騨ほうのき平スキー場に。そこの喫茶にて休憩。喫茶店の窓越しに見える高山方面には青空も垣間見えている。
スマホでさらに他の河川の情報をチェック。何と、馬瀬川・上流域の水位が安定している。
早速に、Iさんが馬瀬の友人に電話を入れ情報を入手。高原川の上流部の「赤坂橋」の堰堤の下がいいだろうとのことにて、飛騨古川を抜け、パスカル清美の方面を目指してせせらぎ街道を進む。
分水嶺を越えて高原川の源流部に到着。


上の動画が、その目的地である。誰もいない。ラッキーッ。
早速に入川。すると、間もなく、3台の車がやってきて、自分の前はギャラリーが5人。作法を間違えないように、オトリを送り出す。若干の濁りはあるが、問題はない。問題は水温である。14℃。これでは、アマゴ、岩魚の世界である。
途中、あの卯の花街道の道の駅で会ったあの二人連れの釣り人の車が通り過ぎていった。釣り好きな人は同じ思考をするのだろうかと感心した。
ここで2尾。

小雨も降ってきてここで移動。14時。
高原川を下ることとなり、パスカル清美を右手に見ながら南下。暫くして新しいトンネルを抜け、川がSの字になるとこで脇道に入って行くと吊り橋がある。初めての場所である。川原にはテントが2つ張ってあり、キャンプをしている。天候が悪いからといってキャップを日延べできないのが、勤め人の辛いところ。それにしても、幻想的な風景である。
ここでちょっとした淵があり、その上でオトリを送り込む。膝あたりまでの水位である。水温はあいかわずである。ここでも2尾。

17時に納竿。
釣り好きな人たちの信念に感服した釣行であった。まだ、マダッ!と、自らを鼓舞してみた盆休み。

2012年8月12日日曜日

長良川・美並への釣行

夏休暇の2日目。長良川の美並地区に釣行。最初に入った場所は、円空の里、支流・粥川の合流地点である。ここは、車の駐車スペースが広く、入川しやすい。
粥川の上流に円空のふるさと館があって、円空仏も多く展示されているということであるが、まだ、訪れたことがない。岐阜の人間ながら、ほとんど岐阜のことを知らない。釣りを始めて、いろいろな地名を覚えはじめたまだまだ若葉マークの岐阜人なのである。
朝10時、すでに10人近い釣り人が竿を出している。
川は、渇水が続き、根腐れを起こして岩は、赤茶けたヌルヌルとしたコケに覆われていて、滑りやすい。

ここで、正午近くまで粘ってみなものの、2尾が掛かったのみ。これ以上、進展が期待できず、昼食を機に、川の下流になるいつもの「福野農道橋」に移動することとした。
昨日は、農道橋の左岸に入ったのだが、Nさんが右岸に入っていたところを橋の上から見た際に多くの野鮎がいたのが気になったからである。
そこは、ゆるいプール状になったところで、川底は頭ほど大きさの石が詰まっている場所である。昼はトロというではないか、とうわけで、トットと移動。

そう、下の写真がそのトロ場である。
水深は思った以上にあるため、竿は、同じシマノのバーサトル85-90からリミテッドプロ95に換え、オトリを奥へ奥へと送り込んだ。


左岸の大きな石に大きなハミ跡があり、そこにオトリを送り込みます。
大きく目印が沈んだかと思うと、グ~~ン~ッと、目印が川を上ります。
来ました来ました、大物です。帰宅後にサイズを測ってみたところ、22センチです。
これは、たのしめました。

 やがて、ボートが大量にやってきました。夏休みです。若者が、ワイワイとたのしんでいます。
以前は、先頭にカヤックで「これからボートが入ります~ッ!」と挨拶していたように記憶しています。また、シンガリにもカヤックに乗った指導員が、「ありがとうございました~ッ!これが最後のボートです~ッ」と、気を配っていたように思います。
それが最近は、なくなったように思うのですが、ボートも釣り人もともに川をたのしむことが大切。
当方が、川の中でカメラを向けていると、ボートの若者が驚いたように回りの連中にカメラがあることを知らせています。当方が、悪意はないことを意思表示しるために、カメラを振ると、《あぁ~》というようにニッコリ。オールを振って応えてくれました。
余程、釣り人に睨まれていることを事前レクされているのだろう。現に、えらく立腹している釣り人を見かけたこともある。
ちょっとした双方のエチケット、気配りが大切であり、誰もが自然をたのしむいくことが何より肝要である。


2012年8月11日土曜日

長良川・美並地区への釣行


きょうから19日までの9日間、夏休暇。
思いっきり、鮎釣りをたのしもうと思い、長良川に釣行。
今朝は、例によって従兄弟と地元での喫茶あとに釣行。
釣行先は、美並地区の「下田北橋」上流にある「福野農道橋」下である。この場所は、2年前の月刊誌「つり人」8月号の表紙を飾った場所である。
下の動画にあるように超渇水の状態である。表紙を飾ったのは、農道橋の真下の大きな岩である。その岩が水面から顔を出しているから、その渇水の程が窺える。水はきれいで透き通っている。


下の写真が、福野農道橋である。立派な橋である。農道橋というからには、国土交通省関連の予算ではなく、農林水産省関連の予算で架けられたものなのだろうが、事業仕分けの時代であれば、間違いなく、こんな立派な橋が必要なのですかと批評されるに違いない。一級河川に架ける橋となると、農道と言えども、これくらいの規模の橋が必要なのかもしれないが、結構、釣り人も重宝して利用している。

野鮎は沈み石や岩盤状態の大きな岩のところで群がっている。そこにオトリを送り込めば、間違いなく好釣果に繋がるはず。
10:30、スタート。
オトリは、野鮎のいる石のあたりを泳いでいるのだが、掛からない。野鮎が縄張りを持たず群れているのだろうか、なかなか掛からない。明らかに縄張りをもって野鮎も見てとることができる。そこにオトリを送り込むと、さきほどまで血気盛んに縄張りに入ってきた別の野鮎を追っ払っていたにもかかわらず、血気盛んな野鮎が影を潜めてします。オトリ鮎が大きすぎるのか、オトリ鮎に異様さが漂っているのか。見えている魚は釣れないというが、鮎もそうなのだろうか。

14:30、川下りのボートがやってきたところで納竿。
4尾。中央の2尾がオトリ鮎。