本日、君原健二氏の日経新聞の「私の履歴書」の連載が終了した。
円谷幸吉選手の話が出で来た時には、昔のことをいろいろ思い出した。昭和39年の東京オリンピック。小学校の5年生だった。東洋の魔女、女子バレーボールと大松監督の厳しい鍛錬は、漫画の連載にもなっていた。
マラソンは、何と言っても「エチオピアのはだしのアベベ選手」が有名だったが、円谷選手はがっしりとした体格で安定した走りだった。一方、君原選手は、苦しそうに顔を左右に振って走っているのが記憶にある。マラソンの日は、授業が取りやめになり、校長先生から自宅で応援するように言われて、集団下校した覚えがある。
しかし、昭和43年、円谷選手は自殺。メキシコ・オリンピックの年だから、東京オリンピックの4年後だった。「美味しゅうございました」と「もう疲れきってしまって走れません」のあの悲しい遺書。川端康成はその純粋さを評し、三島由紀夫は円谷選手の自尊心による崇高な死であると、ノーローゼによる自殺という見方を一喝した。円谷選手の自殺から2年後の昭和45年、中学2年生の時に三島由紀夫が自決した。市ヶ谷の自衛隊の建物のテラスで鉢巻きをした三島由紀夫が演説している姿を今も覚えている。演説の内容は聞き取れなかったが、軍服姿であった。さらに、その2年後の昭和47年、大学1年生だった。川端康成が自殺。そのころは横浜で下宿生活を送っていたが、部屋にテレビがなかったのでラジカセから流れるニュースを聞き入った。衝撃だった。川端については、当初、ガス自殺との報道であったが、事故死説もある。
円谷の自殺→三島の自決→川端の自殺がすべて2年ごとだったことが、不思議だった。その頃だったと思う。ピンク・ピクルスが「一人の道」というを円谷選手の自殺をテーマした歌が流行った。
円谷選手は、東京オリンピックで3位の銅メダルであった。陸上競技場の最後のトラックでイギリスの選手に抜かれてしまう。その実況中継は、あのピンク・ピクルスの歌のイントロ部分に入っている。円谷選手は、大勢の国民が見守るなかで抜かれたことを恥じる。彼は、自衛隊員だった。しかも、その頃、日本はまだ恥の文化色濃い時代。国立競技場に入る時に後ろを振り向いていれば、イギリス人選手が近づいていることを認識きできたはず。しかし、円谷選手の父親は「後ろを振り向くな」と、日頃から厳命していたそうで、その厳命を守って彼は振り向かなかった。武士道精神なのである。
今回の君原選手の「私の履歴書」ではじめて知り、感動したことがある。
以下は、君原選手の「私の履歴書」の抜粋である。
「その後、1人かわすと、間もなくして「ドス(2)」という声が聞こえた。そこで初めて、自分が2番手であり、表彰台に立つチャンスがあると確信した。
しかし、このころ、私の身に困ったことが起きていた。便意を催したのだ。どうしたらいいのだろうと迷った。トイレに行くべきか、我慢して走り続けるべきか。
トイレに行ったら、どれだけタイムをロスするだろう、ペースを少し落として走り続けたほうがロスは少ないだろうかと、懸命に計算した。しかし、疲労がたまり、酸素が希薄で計算がなかなか進まなかった。結局、私は止まらず、ゴールを目指す。
沿道の日本選手団からマイケル・ライアン(ニュージーランド)が迫っていることを耳にしていた。競技場に入るとき、私は東京五輪の円谷さんと同じ状況に置かれていた。「決して振り返るな」という父親の教えを守り通した円谷さんは、ゴール目前でベイジル・ヒートリー(英国)にかわされ3位に落ちた。
私もふだんは、スピードを落としたくないので、後ろは振り返らない。だが、どういうわけか、このときだけは競技場に入る直前に振り向き、後方の状況を確認した。そして、ライアンがすぐ後ろにいることを知る。
私はもがきながらも、必死に走った。ここまで来たら、何としても2位の座を守りたかった。願いはかなった。2度目の五輪で銀メダルを手にしたのだ。それにしても、なぜ私はあのとき、振り返ったのだろう。円谷さんが天国からメッセージを送ってくれたとしか思えない。」
そう、東京オリンピックの円谷選手とまったく同じ状況が、メキシコ・オリンピックの君原選手も経験していたのである。
いい話である。
ところで、マラソン選手がマラソンの最中に便意を催すことは、ままあることなのでろうか。落語家の春風亭昇太がこんな話をしている。
米国にフランク・ショーターというマラソンの選手がいる。ミュンヘンオリンピックの金メダリストだ。ミュンヘンオリンピックは、円谷選手が自殺した年に開催されたメキシコオリンピックの次だから、昭和47年ということになる。川端康成の死んだ年である。その翌年、ショーター選手が琵琶湖で開催された毎日マラソンに参加。走っている途中に沿道の人たちが降っている小旗を引きちぎって脇道にそれ、暫くして戻ってきてまた走り出したという、テレビ中継を見ていた昇太少年は何事が起きたのだろうとびっくりしたらしい。ショーター選手は、走っている途中に便意を催し、小旗を使って用を足したらしい。さらに驚いたことに、そのショーター選手、先行する選手を次々に抜き去って、遂には大会新記録で優勝してしまったそうだ。
春風亭昇太の「昇太」は、その「ショーター」選手の名前が由来だという。
何だか、これから春風亭昇太を見ると、便意を催してきそうであるが、面白いエピソードである。
2020年東京オリンピックの招致、ぜひ実現させてほしいものだ。