2021年6月26日土曜日

20210626 マクワウリと飛騨カボチャの生育状況

 雨、雨、雨・・・。

 東海地方の梅雨入りは、5月中旬でした。夏野菜は、キュウリは好調なるものの、他は日照不足なのか調子はイマイチです。

 飛騨カボチャは、うどん粉病だと思いますが、何だか元気がありません。マクワウリにも飛び火しているようで、白い斑点が見受けられます。

 鮎も育っていないようで、釣り同好会からも長良川の釣果についてのメッセージがありません。飛騨地方の宮川、川上川などは好調のようなのですが、・・・。










2021年6月24日木曜日

20210624 パプリカ 、ピーマンへの追肥

 このところの天気は上々。

 鮎釣りに出かけたいところなれど、長良川の調子がイマイチらしい。釣り同好会のメンバーも、長良川以外に遠征しているとのこと。

 そこで、毎朝、6時頃から夏野菜の世話をしています。きょうも、この週末からの雨予報を期して、草引きと畝の両脇に溝を掘って追肥を施しています。

 このところの夏野菜の世話の成果もあってか、収穫も順調です。ナスの収穫が始まり、トマトが徐々に赤くなり始めました。

(20210624 パプリカ )

(20210624 ピーマンに化成肥料・オール8 )
(20210624 ピーマンに化成肥料に加えてぼかし肥料を追加)

       

                      

2021年6月21日月曜日

20210621 夏野菜の収穫

 一昨日は、終日、予報のとおり雨が降り続きました。

 きょうは、インゲン、キュウリ、そしてジャガイモ(キタアカリ)を収穫しました。

 インゲンは、収穫しながら、株間に化成肥料・オール8を一つまみ、施しました。本来、雨の前に追肥すべきでしたが。  







 先日、男爵芋を収穫したところですが、きょうは「キタアカリ」を収穫しました。上の写真では十分に収穫できているように見えますが、全体としては芋のサイズが小粒でした。これは、4月6日に芽欠きをしたところ4月中旬に季節遅れの霜が降り、多くの葉が黒くなってしまったことが影響しているように思います。

2021年6月18日金曜日

20210618 明日は一日雨だから

  明日は、終日、雨の予報です。

 夏野菜に追肥を施すには、ちょうどいいタイミングです。追肥は、オール鉢の化成肥料と薫炭ボカシ肥料を用います。畝の両脇に溝を掘り、そこに追肥します。

 今年は、キュウリが絶好調です。今のところ、うどん粉病も出ていません。




 ズッキーニも好調です。葉がマダラに白くなっていますが、これはうどん粉病ではありません。花と葉を見ると、確かにズッキーニがカボチャ科であることが納得でいます。ズッキーニは、タイミングを外すと、すぐに5センチを超える太さになってしまいます。ズッキーニは、細めで収穫する方がいいようです。太くなるとカボチャのように芯がスポンジ状になり、タネを蓄えるようになってしまいます。

2021年6月10日木曜日

20210610 今シーズン初の鮎釣り(長良川白鳥地区への釣行)

 風もなく晴れ。
 6月5日に長良川・郡上漁協管内の鮎釣りが解禁となり、前日の大雨で解禁日は増水となり、出鼻を挫かれた格好のようです。
 当方は、年金生活者ですから、現役の方々に週末を譲り、平日に出勤です。朝7時頃には郡上大和地区に到着。川見をしながら上流へと車を走らせます。
 同じように川見をする車が後に続きます。追い立てられるようにアジサイ街道を白鳥(しろとり)方面にグングンと車を走らせ、中津屋大橋の袂にある公園に入り、長良川の様子を確認します。釣り人は、チラホラといったところ。
(20210610  長良川の郡上大和・杉ヶ瀬あたり 1)
(20210610  長良川の郡上大和・杉ヶ瀬あたり 2)
(20210610  長良川の中津屋大橋の袂にある公園からの長良川

 最終的に入川したのは、コテージ「和み舎せせらぎ」の上流です。すでに車が4台、駐車されていました。今年の4月15日に27センチのアマゴを釣ったポイントのちょっと下流です。
 工事でも入ったのでしょうか、石が浮き上がって歩きづらい川原です。




 上流に2人、下流に1人の釣り人です。
 8時30分、釣り開始です。1時間、なんの反応もありません。これが解禁日直後かと、疑いたくなる状況です。上流側のトロ場の釣り人は、ポツンポツンと挙げていますが、見るからに小さいサイズでオトリにならないかもと言った状況です。下流側の人は、当方と同様の状況です。



 1時間ほどしてようやく当たりがあり、慎重に取り込みますが、大きくはありません。さすがに天然鮎をオトリにするとよく泳いでくれます。グングンと流芯を超えて対岸の浅瀬の方に向かっていきます。さらに掛かります。
 ようやく調子に乗ってきたかと思っていた矢先、ボッチャンです。エビになったオトリを直しているときに、前のめりになりドボン。浅瀬であったため大丈夫でしたが、耳にボコボコ、キーン・キーンという金属音がします。
 頭にGoProのカメラをつけていたのですが、その動画のアップを試みましたが、このブログでは容量を超えているとのことで動画のアップはできませんでした。30秒動画もアップできないようです。



 13時頃まで続け、5尾といった釣果です。写真の鮎のうち4尾は購入したオトリです。
 厳しいーっ、シーズンのスタートでした。


2021年6月9日水曜日

20210609 ニンジンの収穫と

  今年の岐阜県美濃地方の梅雨入りは、5月16日でした。

 例年より21日早い梅雨入りでした。この影響は、アチコチに出てくるに違いありません。





 タマネギを収穫した後の畝には、サツマイモを入れようかと思っています。


 スイカ床にワラを敷きましたが、1本の苗が枯れかけていて、水をたっぷり与えて様子眺めです。

 先月17日、アブラムシなどの病害虫対策として、噴霧用の原液を仕込んでおきました。酢に鷹の爪、ニンニクを刻んで漬け込んでおきました。これを500倍に希釈して夏野菜に噴霧します。



2021年6月5日土曜日

20210605 さつま芋苗の植え付け

  昨日は、終日、雨でした。

 さつま芋「紅はるか」40本、「安寧芋」10本を植えることにしました。昨年、紅はるかが好評でしたので、本会は昨年の倍にしました。

 苗の植え付け感覚は、30センチです。植え付けは、斜め10センチの差込です。
 畑の植え付け場所は、タマネギの収穫したあとに畝を立てましたが、畝を立てる際に米糠をスキ込み、2週間ほど経過させています。こちらは、紅はるか20本です。
 田んぼでの植え付けは、ジャガイモ「男爵芋」の収穫後の畝を耕耘しましたが、こちらは米糠などの肥料はスキ込んでいません。さつま芋は肥料が多いと、ツルボケをするそうですので、マルチを張るだけにしました。こちらは、紅はるか20本と安寧芋10本を定植しようと思います。
(20210605  紅はるかの植え付け)

(20210605  スイカの状況)

(20210605  アラブ芋の生育状況)」

(20210605 サトイモの生育状況)

(20210605  男爵芋の収穫跡)

(20210605   男爵芋の収穫後のサツマイモ用の畝)
(注)雨が降ったすぐ後の耕運は、してはいけないらしい。土壌がこねられて粘度状になって密になってしまうとのこと。握ると団子になり、指で押すと崩れる程度、ボカシ肥料を作るときの水分量がいいらしい。

2021年6月3日木曜日

20210603 岩村城跡を訪ねて

 5月下旬の奥美濃ドライブに引き続き、女性陣2人のお供で東濃・恵那をドライブしました。
 岐阜県は、南の美濃地方と北の飛騨地方に分かれ、美濃地方は西から東へ西濃、中濃、東濃に分かれます。奥美濃は、中濃の飛騨寄りになります。
 
 今回、訪れたのは、次のとおりです。

 道の駅「おばあちゃん市・山岡」
 岩村城跡
 岩村城下町
 農村景観日本一展望所
 中山道広重美術館
 
(20210603  道の駅/おばあちゃん市・山岡)

(20210603  日本一の木製水車・直径24メートル、日本一らしい) 
(20210603  道の駅/おばあちゃん市での定食)


(20210605  岩村城跡 1)

(20210605  岩村城跡 2)
(20210605  岩村城跡 3)
(20210605  岩村城跡 4)
(20210605  岩村城跡 5)

(20210605  岩村城跡 6)
(20210605  岩村城跡 7)
(20210605  岩村城跡 8)
(20210605  岩村城跡 9)
(20210605  岩村城跡 10)

 岩村城は、元々は源頼朝の家臣が築いた城のようですが、援軍を待ちわびた悲劇の城です。
 戦国時代の末期、岩村城主は遠山景任(かげとう)、その妻は織田信長の叔母・「お艶(つや)の方」。ふたりには嫡子がないまま城主が病死したため、信長の五男(御坊丸・ごぼうまる)を養子に迎えますが、まだ幼かったため実質的な城主となったのがお艶の方。このため、女城主と言われたとのことです(NHK大河の「おんな城主 直虎」も同時期の井伊家の話ですが、岩村城とは違います)。
 武田信玄の西方作戦のもと配下の武将(秋山虎繁)に攻撃されます。女城主は、信長に援軍を要請しますが、(長島一揆への対応のため)信長からの援軍がやってきません。とうとう、女城主が武田側武将の妻になることを条件に開城します。御坊丸は嫡子として岩村城にとどまる条件でしたが、武田の人質として甲府に送られてしまいます。それに怒った信長は岩村城を攻めます。武田側城主は武田に援軍を要請しますが、援軍はやってきません。結局、武田側武将の城主と信長の叔母は、信長によって長良川の川原で逆さ張りつけに処されます。
 その後の御坊丸を調べてみると、武田信玄の死後、信長に戻されます。そして、犬山城主になりますが、最後は本能寺の変にて明智光秀によって討ち死にします。20歳ぐらいだったようです。
 明智光秀の居城・明智城は、岩村城から南に10キロ足らずの近さです。

(20210605 岩村城下町 1)

(20210605 岩村城下町 2)
(20210605 岩村城下町 3)

(20210605 岩村城下町 4)
(20210605 岩村城下町 5)
 岩村城の城下町では、岩村醸造店でお酒「女城主」を購入し、酒店の前にある松浦軒本店では南蛮渡来のカステーラを購入。そのあと、木村邸を見学。
 
 岩村町発行の「いわむら観光マップ」では、岩村出身の偉人として、佐藤一斎(幕末の儒学書)、下田歌子(実践女子学園創設者)、三好 学(植物学者)が紹介されています。
 下田歌子は、イギリスのヴィクトリア女王に平安朝の女官装束で謁見し、その凛とした姿に女王も関心を寄せ、親しく日本を取り巻く情勢について懇談したとのことのようで、日英同盟の影の立役者とも言われる人です。
    町のパンフレットでは紹介されていませんが、大島 浩 も岩村町出身です。この人は、日独伊三国同盟の立役者として知られております。駐独日本大使を二度務め、ヒトラーからの信頼も厚かったようですが、敗戦後のいわゆる東京裁判では、A級戦犯・終身刑となっています。その後、減刑され出獄しているのですが、一度、テレビインタビューに応じたものの、あとは多くを語らず亡くなっています。
 この岩村町から北西に20キロ足らずで八百津町(やおつちょう)に入ります。ここは、6,000人のユダヤ人を救った命のビザで有名な杉原千畝(すぎはら ちうね)の出身地です。

(20210605  農村景観日本一の展望 1)

(20210605  農村景観日本一の展望 2)
(20210605  農村景観日本一の展望 3)
(20210605  農村景観日本一の展望 4)
(20210605  農村景観日本一の展望 5)
(20210605  農村景観日本一の展望 6)
(20210605  農村景観日本一の展望 7)
(20210605  農村景観日本一展望所の内部)
 いずれにしても、多くの有能な人材を輩出した岩村町です。その才能を育んだ背景には、日本一の農村の景観があったに違いまりません。この「景観」という言葉を最初に用いたのが、前述の 三好 学 という偉人だそうです。